【喜びをはかる物差し】

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「私は偉業をなすのだ」という、一見英雄的でロマンティックな物言い。

やったことが偉業であるかどうかなど、どうでもいい。本人が、自分のやっていることを好きで好きでたまらないのか否か、その一点のみ。


偉業も愚業も、または無反応も、誰かがその人の物差しで評価して私に貼り付けたものに過ぎない(無反応も一つの大いなる意思表示)。誰かの評価によって、いたずらに尊大になる必要も、卑屈になる必要も、絶望する必要もない。


人の反応に触れて一喜一憂する前に、まずは自分の物差しを当てて自分の言動を測ってみよう。自分の営為を俯瞰しよう。


偉ぶって「自分」の物差しなどと書いたが、私の物差しは私が一人で作り上げたものではない。私の物差しはこれまでの社会的経験の集成だからだ。社会とは他者の集積。

だから私の「喜びをはかる物差し」には、自ずと誰かの感情と行動が乗っかっていることになる。誰かの笑顔、喜び、下さった言葉や励ましが乗っかっている。

たとえ1ミリでもこれらを実感できるなら、そのままGOだ。


続けていく中で、私の喜びの物差しは磨かれていくだろう。物差しが当てられる私の営為もまた磨かれていくだろう。

続けていく中で、もしもまた誰かの喜びの物差しと出会うことがあるなら、それは、大きな大きな喜び。


#息をするように音楽をする

#日常は日常のままで別次元

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