【私と私の往復書簡】

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人はみな生まれながらにして作曲者である。

全地球人が、借り物ではないその人自身の”作曲=音楽”を表現する。同時に全地球人の音楽表現に対して開かれた耳を持つ。全ての作曲=音楽の表現は祝福される。商業音楽ではないのだから各人の表現の巧拙は一切問わない。音楽教育でもないので一切の評価も為されない。良い悪い、上手下手という価値基準から自由である表現。


これが私の思う「限界芸術としての音楽」であり、これを体現しようと取り組んでいるのが「全員参加完全即興みんなのおと」「だいめいのないひょうげんのじかん」である。

私が生身の人間と直に出会い、一緒にやりたいことはこの一点。


自分の頭と身体にしっかり刻んでおくために、何度も何度も同じことを書く。


*以上、2019年12月22日のfacebook投稿を原文のまま再掲。


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**以下、今日2020年12月22日、一年後の私からの応答。


まず確認ね。私が体現したい「限界芸術としての音楽」というワードの中の、特に「限界芸術」とは「アマチュアがつくってアマチュアが受け取る」表現のことだよね(福住廉『今日の限界芸術』p.15参照)。


マチュアとは、音楽への純粋な愛がある人のこと。この「純粋」も、ちゃんと定義しておかないと、使うのが危うい言葉だ。


いま私が思うのは、限界芸術としての音楽表現は、そうしたい人がそうすれば良いものだ、ということ。地球人全員がこのような表現をしなければならないわけではない。社会運動でもない。


人間は誰でも作曲できる。

本当に、誰にでもできる。

けど私たちには、難なくできるけど別にやろうと思わないからやらないだけのことはいっぱいある。

例えば、スキップ、うさぎ飛び、後ろ歩き、ターザンの雄叫び、絵描き歌、右利きの人の左手で歯磨き、などなど。


作曲もこれらと同じ。「できるけど別にやろうと思わないからやらないだけ」程度の行為だよ。


能力と意欲は、別もの。

できるとしたいは、別もの。

私は、作曲したいから、作曲する。


作曲は、限界芸術としての音楽は、即興作曲は、すごく人間らしくてドキドキしてワクワクして面白くて喜びに満ちた行為。


このことを私以外の誰かひとりでもいいから感じてくれたら、という願いを持って、私は音楽づくりファシリテーターをやっているんだよね。この願いを持って、社会に何かを仕掛けていこうとしてるんだよね。

この一点だけは忘れないで、遅くゆっくり生きていこうね。


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